〜院長・事務長が押さえる労働時間管理,ハラスメント,問題職員,就業規則の実務対応〜
クリニックの労務トラブルは,少人数・多職種という職場の特徴と,院長が経営者であり上司でもあるという体制から,労働時間の管理,ハラスメント,問題職員への対応,突然の退職の4つの場面に表れやすくなります。診療時間外の準備やカルテ整理が労働時間と評価される場合があること,固定残業代は通常の賃金部分と割増賃金部分を判別できる定めと運用がなければ割増賃金の支払として認められないおそれがあること,ハラスメント防止措置は労働者を1人でも雇用していれば義務であることを押さえることが出発点です。問題職員への対応では,段階的な指導を経ることが法定の手順ではないものの,解雇の有効性の判断で指導の経過が考慮されるため,事実と対応の記録を残しながら進めます。突然の退職には,民法第627条第1項の2週間のルールを前提に,就業規則と引継ぎの体制で備えます。本記事は,予防・整備の段階にある院長・事務長の方と,請求や申出を受けた直後の方の双方に向けて,初動の手順と相談の目安を整理します。
この記事の結論
- 診療時間外の準備,カルテ整理,勉強会などが労働時間に当たるかは,使用者の指揮命令下に置かれていたかどうかを,指示や参加の義務付けなどの実態から判断します。「診療の一環」「自主的な参加」という院長側の認識だけでは決まりません(2項)。
- 固定残業代は,手当が時間外労働等の対価として支払われていることと,通常の賃金部分と割増賃金部分を判別できることが問われます。実際の割増賃金が固定額を上回る場合は,差額の支払が必要です(2項)。
- 労働時間は,タイムカード等の客観的な方法で把握し,賃金計算と照合します。医師については,医療法施行規則第61条が,客観的な方法等による把握と記録の3年間の保存を求めています(2項)。
- ハラスメント防止措置は,クリニックの規模を問わず事業主の義務です。2026年(令和8年)10月1日から,パワーハラスメントの根拠条文は労働施策総合推進法第31条となり,顧客等からの著しい迷惑行為と,求職者等に対するセクシュアルハラスメントにも措置義務が加わりました(3項)。
- 問題職員への対応は,記録,注意,指導,改善機会の付与を重ねる進め方が基本です。ただし,この順序は法定の手順ではなく,解雇の有効性は,労働契約法第16条に基づき,個別の事情を総合して判断されます(4項)。
- 期間の定めのない雇用契約の職員は,民法第627条第1項により,申入れから2週間で退職できます。就業規則に退職の申出時期と引継ぎを定め,無断欠勤が続く場合の手順を決めておくことが備えになります(5項)。
- 医療機関の裁判例では,院長の言動や初動の遅れが問題となった例があります。Bテラス事件では,院長が従業員と共に本人不在の場で揶揄した発言も,不法行為と認められました(7項)。
目次
- 1 クリニックの労務トラブルの全体像
- 2 未払い残業代と労働時間管理
- 3 ハラスメント・スタッフ間のトラブル
- 4 問題職員への対応と解雇
- 5 突然の退職・無断欠勤
- 6 就業規則と院内体制の整備
- 7 医療機関の裁判例に学ぶ対応のポイント
- 8 紛争になった場合の手続と流れ
- 9 自己点検チェックリスト
- 10 弁護士に相談すべき場面と依頼できる業務
- 11 よくある質問(FAQ)
- 12 まとめ
根拠法令・参照資料
※労働基準法(昭和22年法律第49号),労働契約法(平成19年法律第128号),労働安全衛生法(昭和47年法律第57号)及び同法に基づく労働安全衛生規則,民法(明治29年法律第89号),医療法(昭和23年法律第205号)及び医療法施行規則(昭和23年厚生省令第50号),賃金の支払の確保等に関する法律,労働審判法,個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律
労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(昭和41年法律第132号。令和7年法律第63号による改正後,2026年(令和8年)10月1日施行。以下「労働施策総合推進法」といいます。),雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律,育児休業,介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律
事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和2年厚生労働省告示第5号。以下「パワハラ指針」といいます。),事業主が職場における顧客等の言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和8年厚生労働省告示第51号),厚生労働省「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」
裁判例は7項に掲げたものです。上記は,2026年(令和8年)10月27日時点で確認した内容に基づきます。
この記事はこんな方におすすめです
- 診療時間外の業務や固定残業代の扱いを見直したい院長・事務長の方
- ハラスメントの申出を受けた,又は相談窓口や就業規則を整備したい方
- 問題職員への対応や解雇の進め方に不安がある方
- 突然の退職や無断欠勤に備えて,就業規則や引継ぎの仕組みを整えたい方
- 残業代の請求や労働審判に備えて,初動の流れと弁護士に相談する時期を知りたい方
主要用語の定義
労働時間とは,労働者が使用者の指揮命令下に置かれている時間をいいます。
固定残業代とは,一定時間分の時間外労働等に対する割増賃金を,あらかじめ定額の手当や基本給の一部として支払う仕組みをいいます。
割増賃金とは,時間外労働,休日労働又は深夜労働に対して,通常の賃金に一定の割合を加えて支払う賃金をいいます(労働基準法第37条)。
職場のパワーハラスメントとは,職場において行われる優越的な関係を背景とした言動であって,業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより,労働者の就業環境が害されることをいいます(労働施策総合推進法第31条第1項)。
安全配慮義務とは,労働契約法第5条に基づき,使用者が労働者の生命,身体等の安全を確保しつつ労働できるよう,必要な配慮をする義務をいいます。
就業規則とは,労働条件や職場の規律について,使用者が統一的に定めた規則をいいます。常時10人以上の労働者を使用する使用者には,作成と届出の義務があります(労働基準法第89条)。
1 クリニックの労務トラブルの全体像
この項の結論
クリニックの労務トラブルは,労働時間と残業代,ハラスメント,問題職員への対応,突然の退職の4つに整理できます。少人数・多職種の職場で,院長が経営者,診療の責任者,上司を兼ねるため,指示の位置づけが曖昧になりやすく,記録と規則の整備が後回しになりがちです。
1-1 少人数・多職種の職場で生じやすい問題
クリニックでは,医師,看護師,医療事務,検査・放射線関係の技師,受付などの職種が,少人数で同じ診療空間において働きます。職種ごとの役割が固定されやすく,1人が欠けると診療体制に直接影響します。また,院長は,経営者であり,診療の責任者であり,スタッフの上司でもあります。そのため,院長の発言が診療上の指示なのか,労務管理上の指示なのかが,院長にもスタッフにも区別されにくいという特徴があります。
こうした特徴から,診療の前後に行う準備や片付けが勤務時間として管理されないこと,指導が強い口調になること,就業規則が整備されないまま個別の口約束で運用されることなどが,トラブルの背景になりやすいと当事務所は考えています。もっとも,クリニックの労務トラブルの件数や請求額が一般の企業より多いことを示す統計は,当事務所では確認できていません。本記事では,頻度や金額を断定せず,法令と裁判例から確認できる範囲で整理します。
1-2 4つの場面の全体像
次の表は,クリニックで想定される労務トラブルを,場面ごとに整理したものです。「典型的な状況」は想定事例です。
| 場面 | 典型的な状況(想定事例) | 主な法的論点 | 該当項 |
|---|---|---|---|
| 労働時間・残業代 | 開院前の準備,診療後のカルテ整理,勉強会への参加,休憩時間中の電話対応 | 労働時間性,固定残業代の有効性,客観的な時間把握 | 2項 |
| ハラスメント・人間関係 | 院長による強い叱責,先輩職員による新人への言動,妊娠中のスタッフへの言動 | パワーハラスメントの3要素,防止措置義務,安全配慮義務 | 3項 |
| 問題職員への対応 | 無断欠勤,指示に従わない,患者への不適切な対応の繰り返し | 解雇権濫用法理,解雇予告,懲戒,退職勧奨 | 4項 |
| 突然の退職 | 即日の退職の申出,無断欠勤のまま連絡が取れない | 民法第627条,就業規則,引継ぎ,予告除外認定 | 5項 |
1-3 トラブルが診療体制と医院に及ぼすおそれ
労務トラブルが長引くと,スタッフの相次ぐ退職により,診療枠を縮小せざるを得なくなるおそれがあります。労働基準監督署への申告,労働審判,訴訟に発展した場合は,院長の時間と費用が割かれ,診療に影響が及ぶおそれもあります。インターネット上の投稿などにより医院の評判に影響するおそれもありますが,その程度は事案によって異なります。
【この記事の読み方】予防・整備の段階にある方は,2項,3項,6項と,9項のチェックリストからお読みください。請求や申出を受けた直後の方は,該当する項の「STEP」と,10項の相談の目安からお読みください。
2 未払い残業代と労働時間管理
この項の結論
診療時間外の業務が労働時間に当たるかどうかは,使用者の指揮命令下に置かれていたかを,実態に即して判断します。固定残業代は,対価性と,通常の賃金部分・割増賃金部分の判別可能性が問われ,固定額を超える分は差額を支払う必要があります。リスクを抑える基本は,客観的な時間把握と,賃金計算との照合です。
2-1 労働時間に当たるかどうかの判断基準
最高裁判所は,労働時間に当たるかどうかは,労働者の行為が使用者の指揮命令下に置かれたものと評価できるかどうかにより客観的に定まり,労働契約や就業規則の定めのみで決まるものではないとしています(最高裁判所2000年(平成12年)3月9日判決・三菱重工業長崎造船所事件)。
実際に作業をしていない待機の時間であっても,必要が生じたときに直ちに対応することが義務付けられ,労働から離れることが保障されていない場合は,労働時間に当たるとされています(最高裁判所2002年(平成14年)2月28日判決・大星ビル管理事件)。他方で,待機の時間の全てが労働時間になるわけではなく,呼出しの頻度や対応に要する時間,場所的な拘束の程度などによって結論が分かれます(7項の誠馨会事件を参照してください。)。なお,同判決は,労働時間に当たるとしても,通常の賃金(時間外手当等を含みます。)の請求権が当然に生じるわけではなく契約の定めによるとしつつ,法定時間外労働や深夜労働に当たる部分については,労働基準法第37条に基づく割増賃金の支払義務があるとしています。
したがって,院長が「診療の一環」「自主的な参加」と考えている時間であっても,指示や参加の義務付け,業務との関連,不参加による不利益の有無などの実態から,労働時間と評価される場合があります。個々の時間について,一律に労働時間に当たる,又は当たらないと決めることはできません。
2-2 クリニックで問題になりやすい時間
| 場面 | 判断の視点 | 整備のポイント |
|---|---|---|
| 開院前の準備(機器の立ち上げ,清掃,朝礼) | 業務として指示又は黙認されていたか,参加が実質的に義務付けられていたか | 始業時刻を準備を始める時刻と定義するか,準備に要する時間を所定労働時間に含める |
| 診療終了後のカルテ整理,レセプト業務,片付け | 当日中に終えるよう指示されているか,終えなければ翌日の診療に支障が出る業務か | 終業後の業務時間を見込んだシフトとし,残業は事前申請と承認の運用にする |
| 勉強会,院内ミーティング,研修 | 参加が義務付けられているか,不参加で不利益な扱いを受けるか,業務に関連するか | 参加が義務のものは勤務時間内に実施するか労働時間として扱い,任意参加のものは任意であることを明示して不利益に扱わない |
| 昼休みの電話対応,来院対応 | 休憩時間中も対応が求められ,労働から離れることが保障されていないか | 休憩を取る時間帯と交代の体制を決める |
| 夜間・休日のオンコール待機(医師等) | 呼出しの頻度,対応に要する時間,場所的な拘束の程度 | 拘束の程度を踏まえて労働時間の扱いと手当を決め,書面で明示する |
【補足】表の「判断の視点」は一般的な整理です。個別の事案では,実態に即した検討が必要です。
2-3 固定残業代の有効性
固定残業代は,給与計算を簡略にする目的で導入されることがあります。しかし,要件を満たさない運用では,割増賃金の支払として認められないおそれがあります。
最高裁判所は,勤務医の年俸に時間外労働等の割増賃金を含める合意があった事案で,年俸のうち通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別できないとして,年俸の支払により割増賃金が支払われたとはいえないとしました(最高裁判所2017年(平成29年)7月7日判決・医療法人社団康心会事件)。また,ある手当が時間外労働等の対価として支払われるものかどうかは,契約書等の記載内容のほか,使用者の労働者に対する説明の内容,労働者の実際の労働時間等の勤務状況などの事情を考慮して判断するとしています(最高裁判所2018年(平成30年)7月19日判決・日本ケミカル事件)。
これらを踏まえると,固定残業代の有効性を検討する際は,次の点を確認する必要があります。どの点が欠けると直ちに無効になるかは事案によって異なるため,一つでも欠ける場合は,運用を見直してください。
- 手当が,時間外労働等に対する割増賃金の支払であることが,契約書,労働条件通知書,賃金規程に明確に定められているか。
- 基本給と固定残業代の金額が区分され,通常の労働時間の賃金部分を判別できるか。
- 手当が実際に時間外労働の対価として運用され,その趣旨が使用者からスタッフに説明されているか。
- 実際の時間外労働に基づく割増賃金が固定額を上回る場合に,差額を支払っているか(労働基準法第37条)。
- 固定額に対応する時間数を定め,書面で明示しているか(時間数の明示は,当事務所が実務上お勧めする対応です。)。
要件を満たさないと判断された場合,固定残業代として支払っていた手当は割増賃金の支払として扱われず,通常の賃金として,割増賃金の算定の基礎に含まれるおそれがあります。その結果,既に支払った額に加えて,多額の割増賃金の支払を求められるおそれがあります。割増賃金の割合は,時間外労働が2割5分以上,1箇月60時間を超える部分が5割以上です(労働基準法第37条)。
2-4 院長以外の管理職の扱い
事務長や看護師長などを「管理職」として扱い,残業代を支払っていないことがあります。労働基準法第41条第2号の管理監督者に当たるかどうかは,役職名ではなく,職務内容,権限,勤務の自由度,待遇などの実態から判断されます。役職名だけで割増賃金の対象から外すと,後に請求を受けるおそれがあります。管理監督者として扱っているスタッフがいる場合は,実態を一度点検してください。
2-5 労働時間を客観的に把握する方法
労働時間の把握は,次の法令と指針に基づく対応です。
- 労働安全衛生法第66条の8の3と労働安全衛生規則第52条の7の3は,事業者に,労働者の労働時間の状況を,タイムカードによる記録,パソコン等の使用時間の記録等の客観的な方法その他の適切な方法により把握し,記録を3年間保存することを求めています。
- 医療法施行規則第61条は,病院又は診療所の管理者に対し,勤務する医師の労働時間を,タイムカード等の客観的な方法その他の適切な方法により把握し,記録を3年間保存することを求めています(2024年(令和6年)4月1日施行)。
- 厚生労働省の「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関するガイドライン」は,始業・終業時刻の確認と記録の方法として,使用者が自ら現認する方法か,タイムカード,ICカード,パソコンの使用時間の記録等の客観的な記録を基礎とする方法を原則としています。自己申告制による場合は,実態の調査を含む一定の措置を求めています。
- 賃金台帳など労働関係の重要な書類は,労働基準法第109条により保存が必要です(保存期間は5年ですが,当分の間は3年です(附則第143条第1項)。)。
客観的な記録があっても,それだけで請求を退けられるわけではありません。ただし,請求を受けたときに実際の労働時間を検討する基礎資料になります。記録と賃金計算が一致していることが重要です。
- STEP1 始業・終業の定義を決める診療の準備を始める時刻,診療終了後の片付けやカルテ整理を終える時刻を,始業・終業の時刻として扱うかを決め,スタッフに説明します。
- STEP2 記録の方法を決めるタイムカード,ICカード,クラウド勤怠システムなど,医院の規模に合う方法を選びます。記録を事後に修正する場合の手順も決めておきます。
- STEP3 毎月点検する毎月,記録と賃金計算の内容を照合します。固定残業代を設けている場合は,実際の時間外労働が固定分を超えていないかを確認します。
2-6 残業代の請求を受けたときの初動
スタッフや元スタッフから残業代の請求を受けたときは,感情的に反論せず,次の順で対応します。
- STEP1 請求の内容を確認する請求者の在職・退職の別,請求の対象期間,請求額の根拠を確認します。請求書が届いた日を記録します。
- STEP2 資料を保全するタイムカード,シフト表,賃金台帳,雇用契約書,労働条件通知書,賃金規程,業務連絡のメッセージなどを廃棄せずに保全します。勤怠データが一定期間で上書きされる設定の場合は,直ちに保存します。
- STEP3 労働時間と金額を検討する実際の労働時間,固定残業代の有効性,管理監督者性などを検討し,請求額の妥当性を試算します。賃金請求権の消滅時効は,当分の間3年です(労働基準法第115条,附則第143条第3項)。裁判所は,未払いの割増賃金について,これと同一額の付加金の支払を命じることができます(同法第114条)。退職した労働者に対する賃金の遅延利息は,退職の日の翌日から,年14.6%で計算されます(賃金の支払の確保等に関する法律第6条第1項,同法施行令第1条)。ただし,賃金の支払の遅滞がやむを得ない事由で厚生労働省令が定めるものによる場合は,その期間は適用されません(同条第2項)。
- STEP4 対応方針を決める支払,交渉,あっせん,労働審判,訴訟のうち,どの手続を想定するかを決めます。手続の流れは8項を参照してください。報復的な不利益取扱いは新たな紛争の原因になるため,行わないでください。
3 ハラスメント・スタッフ間のトラブル
この項の結論
ハラスメントの防止措置は,クリニックの規模を問わず事業主の義務です。パワーハラスメントは,優越的な関係を背景とした言動であること,業務上必要かつ相当な範囲を超えていること,就業環境が害されることの3つで判断し,上下関係や厳しい指導というだけで直ちに該当するわけではありません。申出を受けたら,被害者の保護,事実確認,措置,再発防止の順で進めます。
3-1 職場のパワーハラスメントの3要素
職場のパワーハラスメントとは,職場において行われる優越的な関係を背景とした言動であって,業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより,労働者の就業環境が害されることをいいます。この定義は,労働施策総合推進法第31条第1項に規定されています(2026年(令和8年)9月30日までは第30条の2第1項でしたが,同年10月1日の改正法施行により条番号が変わりました。)。
3つの要素を満たすかどうかは,言動の目的,態様,頻度や継続性,当事者の関係,被害の程度などを踏まえて,個別に判断されます。診療中の緊急の場面で必要な指示を強い口調で行うことと,人格を否定する言動を繰り返すこととは,区別して考える必要があります。「院長と職員」「先輩と後輩」という立場の差や,指導が厳しいという事情だけで,直ちにパワーハラスメントに当たるわけではありません。
パワハラ指針は,典型的な言動を6つの類型に整理しています。次の表は,各類型について,クリニックでの想定事例を示したものです。
| 類型 | クリニックでの想定事例 | 考え方のポイント |
|---|---|---|
| 身体的な攻撃 | 診療中にミスをしたスタッフを叩く,物を投げつける | 業務上の必要性が認められる余地はないと考えられます。 |
| 精神的な攻撃 | 患者やスタッフの前で,人格を否定する言葉で長時間叱責する | 指導の必要性があっても,態様が相当な範囲を超えるかが問われます。 |
| 人間関係からの切り離し | 特定のスタッフだけを朝礼や業務連絡から外す,長期間無視する | 業務上の必要性を説明できない場合は,問題となります。 |
| 過大な要求 | 経験の浅い職員に,能力を大きく超える業務を一方的に課す | 教育の一環として相当な範囲かが問われます。 |
| 過小な要求 | 気に入らないスタッフに,仕事を与えない,単純作業のみを命じる | 業務上の合理性がない場合は,問題となります。 |
| 個の侵害 | 私生活や家庭環境について執拗に詮索し,他の職員に話す | 業務と無関係な事項への踏み込みは,慎重を要します。 |
【補足】6つの類型は例示です。個々の言動が該当するかどうかは,個別の事情によって判断されます。
3-2 事業主が講ずべき措置
事業主は,職場におけるパワーハラスメントを防止するため,雇用管理上必要な措置を講じる義務があります。この義務は,労働者の人数を問わず,クリニックにも課されています。パワハラ指針は,措置の内容を次の4つに整理しています。
| 措置 | 指針の内容 | クリニックでの具体化の例 |
|---|---|---|
| 方針の明確化と周知・啓発 | パワーハラスメントを行ってはならない旨の方針と,行為者への厳正な対処の方針を明確にし,周知する | 就業規則や服務規律に禁止と懲戒を定め,院内への掲示や入職時の説明で全スタッフに周知する |
| 相談体制の整備 | 相談窓口をあらかじめ定め,相談に適切に対応できるようにする | 院長以外の窓口(事務長,外部の弁護士や社会保険労務士等)を定め,口頭でも相談できるようにする |
| 事後の迅速かつ適切な対応 | 事実関係の迅速かつ正確な確認,被害者への配慮,行為者への措置,再発防止を行う | 院長が当事者の場合に,外部の第三者が事実確認に関与する体制を想定しておく |
| 併せて講ずべき措置 | 相談者や行為者のプライバシーを保護し,相談したこと等を理由とする不利益な取扱いをしない旨を周知する | 相談内容を知る者の範囲を限定し,不利益取扱いの禁止を規程に明記する |
クリニックでは,院長自身が行為者や当事者になる場合があります。院長のみを相談窓口にすると相談が機能しないおそれがあるため,院長以外にも相談できる窓口を設けることを,当事務所はお勧めします。
措置を講じていない場合や,申出を受けても対応しなかった場合は,法令上の措置義務の問題にとどまらず,使用者が労働契約法第5条の安全配慮義務を怠ったものとして,損害賠償責任を問われるおそれがあります(7項の裁判例を参照してください。)。
3-3 妊娠・出産・育児休業等に関するハラスメント
妊娠・出産・育児休業等に関するハラスメントについても,男女雇用機会均等法第15条と育児・介護休業法第25条に基づき,事業主に防止措置(相談に応じ,適切に対応するために必要な体制の整備その他の雇用管理上必要な措置)が義務付けられています。妊娠・出産等を理由とする解雇その他の不利益な取扱いも,男女雇用機会均等法第9条第3項などにより禁止されています。
他方で,業務分担や安全への配慮の観点から,客観的に見て業務上の必要性がある言動は,ハラスメントに当たらないとされています。もっとも,本人の意向や体調を確認しないまま一方的に担当を外すなどの対応は,別の問題を生むおそれがあります。
医療機関の事案として,妊娠した歯科医師に対する院長の言動が争われた東京高等裁判所2023年(令和5年)10月25日判決(医療法人社団Bテラスほか事件。以下「Bテラス事件」といいます。)があります。詳細は7項で説明します。
3-4 患者等からの言動と求職者等へのセクシュアルハラスメント
2026年(令和8年)10月1日に,ハラスメント対策の義務が二つ加わりました。一つは,顧客等からの著しい迷惑行為(カスタマーハラスメント)に関する雇用管理上の措置であり,労働施策総合推進法第33条に規定されています。この「顧客等」には,顧客,取引の相手方,施設の利用者その他の事業に関係を有する者が含まれ,事業主には,相談に応じ適切に対応するための体制の整備その他の措置(被害を防止するための措置を含みます。)が求められます。もう一つは,求職者等に対するセクシュアルハラスメントの防止措置であり,男女雇用機会均等法第13条に規定されています。
クリニックでは,患者やその家族からの暴言や過度な要求への対応が,カスタマーハラスメントの措置との関係で問題となり得ます。患者対応の具体的な進め方は,「クリニックにおけるクレーマー患者対応」で整理しています。
求職者等に対するセクシュアルハラスメントは,採用面接等の場面での言動が対象となります。クリニックが採用面接を行う場合は,面接を担当する院長や事務長が,質問や言動に留意してください。厚生労働省の指針は,事業主が講ずべき措置として,方針の明確化と周知・啓発,求職者等からの相談に応じる体制の整備,相談があった場合の迅速かつ適切な対応(事実確認,被害者と行為者への措置,再発防止)を挙げる見込みです。実習生の受入れやインターンシップも対象となり得るため,確定した指針で確認してください。
3-5 ハラスメントの申出を受けたときの初動
スタッフからハラスメントの申出を受けたときは,次の順で進めます。院長が当事者である場合は,院長自身が事実確認に関わらず,外部の窓口や第三者に委ねることが重要です。
- STEP1 申出を受け付けて記録する申出の日時,申出者の意向(調査を望むか,配慮のみを望むか),相談の内容を記録します。申出者のプライバシーを守り,内容を知る者の範囲を限定します。
- STEP2 被害者を保護する勤務シフトや担当の調整により,行為者と接触する機会を減らすなど,被害者の意向を確認しながら配慮します。被害者に不利益が生じる形での配置転換は避けます。
- STEP3 事実関係を確認する申出者,行為者,第三者の順にヒアリングし,日時,場所,言動の内容を確認します。事実と評価を分けて記録し,メッセージや録音などの資料を確認します。
- STEP4 措置を決める確認した事実に基づき,注意,指導,懲戒,配置転換などを検討します。就業規則上の根拠と,処分の均衡を確認します。
- STEP5 再発防止とフォローを行う研修やルールの周知,面談などにより再発を防ぎ,申出者に不利益な取扱いがないかを継続的に確認します。
4 問題職員への対応と解雇
この項の結論
問題職員を解雇できるかは,労働契約法第16条に基づき,解雇に客観的に合理的な理由があり,社会通念上相当といえるかで判断されます。注意,指導,改善機会の付与,記録といった段階的な対応は法定の手順ではありませんが,その経過は有効性の判断で考慮されることがあります。即日の解雇では,予告手当の問題と,解雇が有効かどうかの問題が別にあります。
4-1 解雇が制限される理由と判断の枠組み
解雇は,客観的に合理的な理由を欠き,社会通念上相当であると認められない場合は,権利を濫用したものとして無効となります(労働契約法第16条)。無断欠勤,勤務態度の不良,患者への不適切な対応などがあっても,直ちに解雇が有効になるわけではありません。
勤務成績や勤務態度を理由とする解雇では,問題行為の程度,改善の見込み,使用者が行った注意や指導の内容と経過,改善の機会の付与,配置転換など解雇を避けるための措置の有無といった事情が,総合的に考慮されると考えられます。事案によって結論が異なるため,「記録を積み重ねれば,解雇の法的リスクを抑えられる」と断定することはできません。
4-2 問題行為への段階的な対応と記録
問題職員に対しては,いきなり解雇を検討するのではなく,次の順で対応を重ねることが,実務上は一般的です。この順序は当事務所が提案する一例であり,法律が定める手順ではありません。問題行為の重大性によっては,異なる対応が適切な場合があります。
- STEP1 問題行為を特定して記録する日時,場所,具体的な言動,患者や他のスタッフへの影響を記録します。事実と院長の評価を分けて記載します。
- STEP2 注意と指導を行うまず口頭で注意し,改善されない場合は書面で指導します。目的は改善であることを伝え,指導の日付と内容,本人の説明を記録します。
- STEP3 改善の機会を与える改善すべき点,期間,確認の方法を具体的に示します。担当業務や配置の見直しなど,解雇以外の方法も検討します。
- STEP4 懲戒や解雇を検討する就業規則に根拠となる規定があるかを確認し,本人に弁明の機会を与えます。処分の重さが問題行為と釣り合っているかを検討します。
- STEP5 手続を踏む解雇する場合は,解雇予告又は予告手当の支払の要否を確認します。退職勧奨を行う場合は,4-4の留意点を踏まえます。
次の表は,想定事例について,最初に検討する対応と記録すべき事項を整理したものです。
| 想定事例 | 最初に検討する対応 | 記録すべき事項 |
|---|---|---|
| 無断欠勤を繰り返す | 理由の確認,出勤を求める書面の交付,欠勤の取扱いのルールの説明 | 欠勤日,連絡の有無,督促の日時と内容 |
| 指示に従わず診療に支障が出る | 指示の内容と必要性の説明,改善の期限を示した書面による指導 | 指示の内容,拒否の状況,診療への影響 |
| 患者への不適切な対応を繰り返す | 事実の確認,患者対応の基準の説明,研修の実施 | 苦情の内容,対応した日時,指導の経過 |
4-3 解雇予告・解雇制限・不利益取扱いの禁止
- 使用者は,労働者を解雇しようとする場合,少なくとも30日前に予告するか,30日分以上の平均賃金(予告手当)を支払う必要があります(労働基準法第20条)。予告手当を支払えば即日の解雇も手続上は可能ですが,解雇が有効かどうかは,労働契約法第16条によって別に判断されます。
- 業務上の負傷や疾病による休業期間とその後30日間,産前産後の休業期間とその後30日間は,原則として解雇できません(労働基準法第19条)。
- ハラスメントの相談を行ったことや,事業主による相談への対応に協力した際に事実を述べたことを理由とする解雇その他の不利益な取扱いは,禁止されています(労働施策総合推進法第31条第2項)。妊娠・出産,育児休業の申出や取得等を理由とする不利益取扱いも,別の法律で禁止されています。
4-4 退職勧奨を行う場合の留意点
退職勧奨とは,使用者が労働者に自発的な退職を促す働きかけをいいます。応じるかどうかは労働者の自由であり,退職の合意が成立すれば,合意による退職となります。他方で,長時間にわたる面談,多数回の面談,威圧的な言動,退職を拒否している労働者への執拗な働きかけなどは,社会通念上相当と認められる範囲を超え,違法な退職強要として損害賠償責任を問われるおそれがあります。
退職勧奨を行う場合は,面談の目的を説明し,本人が考える時間を確保して,退職の条件を書面で確認します。「退職しなければ解雇する」といった発言は,解雇の有効性の見通しを踏まえずに行うと,後に紛争の原因になるおそれがあるため,慎重に判断してください。
5 突然の退職・無断欠勤
この項の結論
期間の定めのない雇用契約の職員は,民法第627条第1項により,退職を申し入れた日から2週間で退職できます。有期雇用の職員は,やむを得ない事由がない限り,期間の途中で退職できません。突然の退職には,就業規則で退職の申出時期と引継ぎを定め,無断欠勤が続く場合の手順を決めて備えます。
5-1 退職の自由と2週間のルール
民法第627条第1項は,当事者が雇用の期間を定めなかったときは,各当事者はいつでも解約の申入れをすることができ,雇用は,申入れの日から2週間を経過することによって終了すると定めています。そのため,期間の定めのない雇用契約(無期雇用)の職員は,退職の理由を問わず,申入れから2週間で退職することができます。
有期雇用の職員は,やむを得ない事由があるときに限り,直ちに契約を解除することができます(民法第628条)。そのため,契約期間の途中で,やむを得ない事由なく即日に退職することは,原則として認められません。ただし,契約期間が1年を超える有期雇用の職員は,契約期間の初日から1年を経過した日以後は,使用者に申し出ることによりいつでも退職できるとする例外があります(労働基準法附則第137条。第14条第1項各号に該当する労働者を除きます。)。個別に確認してください。
【補足】月給制のスタッフについて,解約の申入れを当期の前半にしなければならないとする民法第627条第2項と,6箇月以上の期間によって報酬を定めた場合に3箇月前の申入れを求める同条第3項は,2020年(令和2年)4月1日施行の民法改正後は,使用者からの解約の申入れに関する規定です。労働者からの退職の申入れは,同条第1項で判断されます。
5-2 就業規則で備える
就業規則には,退職を希望する場合の申出の時期(たとえば1箇月前まで),退職届の様式,業務の引継ぎ,貸与物の返却などを定めておくと,退職時の運用が安定します。もっとも,民法が定める2週間より長い申出期間を就業規則で定めた場合に,労働者の退職の効力をどこまで制限できるかについては見解が分かれており,一律には判断できません。院長としては,規定を根拠に退職を拒むのではなく,早めの申出と引継ぎへの協力を求める運用を基本にしてください。
退職日までの年次有給休暇の請求がある場合,使用者は時季変更権を行使しても,退職日を超えて休暇の時季を変更することはできません。引継ぎが必要な場合は,退職の申出を受けた時点で,速やかに日程を調整してください。
5-3 無断欠勤で連絡が取れないとき
- STEP1 安否を確認する電話,メール,メッセージ,緊急連絡先への連絡により,まず本人の安否を確認します。病気や事故の可能性があるため,直ちに解雇や退職の扱いとはしません。
- STEP2 出勤を求める書面を送る出勤を求める日時と連絡先を記載した書面を,到達が確認できる方法で送付し,欠勤日と連絡の状況を記録します。
- STEP3 取扱いを判断する本人から退職の意思表示があったか,就業規則に自然退職や懲戒解雇の規定があるかを確認します。無断欠勤が一定期間続いたときに退職とする規定を設ける例がありますが,その有効性や適用は個別に判断されます。解雇する場合は,後述の予告除外認定の要否も検討します。
- STEP4 退職の手続を進める離職票や社会保険の手続,貸与物の回収,最終給与の精算を進めます。私物や患者情報を含む資料の取扱いも確認します。
労働者の責めに帰すべき事由に基づいて解雇する場合は,労働基準監督署長の認定を受けることで,解雇予告や予告手当が不要となります(労働基準法第20条第1項ただし書,第3項)。認定基準では,2週間以上正当な理由なく無断で欠勤し,出勤の督促にも応じない場合が,例として挙げられています。ただし,認定は個々の事情を総合して判断され,解雇の有効性そのものを保証するものではありません。
5-4 損害賠償請求を検討するとき
引継ぎをしないまま退職した職員に対して,診療への支障を理由に損害賠償を請求できるかは,退職の態様,生じた損害の内容,退職との因果関係などによって異なります。損害の立証が容易ではないため,簡単には認められないと当事務所は考えます。請求を検討する場合は,事前に弁護士に相談することをお勧めします。
5-5 突然の退職を防ぐ取組み
- 面談を定期的に行い,勤務への不満や体調の変化を早めに把握する。
- 業務マニュアルと引継ぎ書の様式を整え,担当を特定の職員に集中させない。
- シフトに余力を持たせ,欠員が出た場合の代替の体制を決めておく。
- 退職の申出があった場合は,退職日までの引継ぎの日程を本人と協議する。
6 就業規則と院内体制の整備
この項の結論
常時10人以上の労働者を使用するクリニックには,就業規則の作成と労働基準監督署への届出の義務があります。10人未満でも,労務トラブルの予防のために整備する意義があります。インターネット上のひな形をそのまま使うと,勤務形態や賃金の実態と合わず,紛争時に機能しないおそれがあります。
6-1 作成・届出の義務と記載事項
常時10人以上の労働者を使用する使用者は,就業規則を作成し,労働基準監督署に届け出なければなりません(労働基準法第89条)。パートタイマーやアルバイトを含めた人数で判断します。作成や変更の際は,労働者の過半数で組織する労働組合,それがない場合は労働者の過半数を代表する者の意見を聴き(同法第90条),労働者に周知する必要があります(同法第106条)。
就業規則に必ず記載しなければならない事項は,始業・終業の時刻,休憩時間,休日,休暇,交替制の場合の就業時転換に関する事項,賃金の決定・計算・支払の方法,賃金の締切り・支払の時期,昇給に関する事項,退職に関する事項(解雇の事由を含みます)です。懲戒処分(制裁)を定める場合は,その種類と程度も記載する必要があります。
ハラスメントの禁止や懲戒の規定を,法定の必須項目と同じように理解する必要はありません。ただし,方針の明確化と周知の手段として,就業規則その他の服務規律を定めた文書に,ハラスメントを行ってはならない旨を定めることは,実務上有用です。
常時使用する労働者が10人未満のクリニックには作成の義務はありませんが,労働条件と服務規律を明確にし,紛争を予防するために,作成を検討する意義があります。就業規則を含む労務体制の整備については,「労務体制を整備し,企業を強くするためのサポートプラン」でも案内しています。
6-2 クリニックで定めておきたい事項
| 項目 | 規定の趣旨 | 留意点 |
|---|---|---|
| 勤務時間とシフト | 診療時間と所定労働時間の関係,準備・片付けの時間の扱いを明確にする | 変形労働時間制を採る場合は,労働基準法第32条の2等の要件を満たす定めが必要です。 |
| 残業と労働時間の記録 | 残業の事前申請と承認,記録の方法を定める | 承認制を設けても,残業を黙認していれば労働時間と評価されるおそれがあります。 |
| 賃金と固定残業代 | 手当の名称,金額,対応する時間数,差額の精算を定める | 2-3の点検事項を満たしているかを確認します。 |
| ハラスメント防止と懲戒 | 禁止する言動,相談窓口,懲戒の種類と程度を定める | 懲戒は,事由と種類を具体的に定めておきます。 |
| 退職と解雇 | 退職の申出時期,引継ぎ,解雇の事由を定める | 5-2の点に留意し,運用と整合させます。 |
| 患者情報とSNS | 患者の個人情報の取扱い,守秘義務,SNSへの投稿の禁止を定める | 患者を特定できる情報の投稿を防ぐ観点で,具体例を示します。 |
6-3 想定されるよくある失敗とその改善
| 失敗例 | 問題点とおそれ | 改善の方向 |
|---|---|---|
| インターネットのひな形を,そのまま就業規則とする | 勤務形態や賃金の実態と合わず,規定どおりの運用ができません。紛争時に,規則が根拠にならないおそれがあります。 | 実態を洗い出した上で,医院固有の勤務形態,手当,服務規律を反映して改定する |
| 感情に任せて,即日に解雇する | 解雇の有効性が否定され,解雇後の賃金の支払を求められるおそれがあります。予告手当の問題も生じます。 | 4-2の手順で事実と指導の経過を整理し,弁護士に相談してから通知する |
| 固定残業代を口頭の説明だけで運用し,超過分を精算しない | 手当が割増賃金の支払と認められず,未払いの割増賃金を請求されるおそれがあります。 | 書面で手当の趣旨,金額,時間数を明示し,毎月超過分を確認して精算する |
7 医療機関の裁判例に学ぶ対応のポイント
この項の結論
医療機関に関する裁判例からは,固定残業代は賃金の区分を判別できることが重視されること,院長の言動や初動の遅れが損害賠償や賃金の支払につながり得ること,待機時間の労働時間性は拘束の程度によって結論が分かれることを確認できます。Bテラス事件は,本人不在の場での院長の揶揄も不法行為と認められた点が特徴です。
7-1 裁判例の比較表
次の表は,本記事で取り上げた医療機関に関する裁判例を,事案と判断の概要別に整理したものです。いずれも事案に即した判断であり,同様の事情があれば同じ結論になるとは限りません。
| 裁判例 | 事案 | 判断の概要 | 実務上の示唆 |
|---|---|---|---|
最高裁判所2017年(平成29年)7月7日判決 医療法人社団康心会事件 | 勤務医の年俸に時間外労働等の割増賃金を含める合意があった事案 | 年俸のうち通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別できないとして,年俸の支払により割増賃金が支払われたとはいえないとした。原審は,医師の業務の特質や年俸の高さを理由に合意を有効としたが,最高裁は是認しなかった。 | 固定額に何が含まれるかを判別できる定めが必要である。高額の年俸の医師であっても,区分を判別できなければ支払とは認められなかった。 |
最高裁判所2018年(平成30年)7月19日判決 日本ケミカル事件 | 薬局に勤務する薬剤師に支払われた業務手当が,時間外労働の対価に当たるかが争われた事案 | 手当が時間外労働等の対価として支払われるものかどうかは,契約書等の記載,使用者の説明の内容,実際の勤務状況などを考慮して判断するとした。業務手当は約28時間分の割増賃金に相当し,実際の時間外労働の状況と大きくかい離するものではないことなどから,時間外労働等に対する賃金の支払とみることができるとした。 | 賃金規程等の記載とスタッフへの説明に加え,手当の額と実際の時間外労働の状況にかい離がないかを確認する必要がある。 |
千葉地方裁判所2023年(令和5年)2月22日判決 医療法人社団誠馨会事件 | 後期研修医として勤務した医師が未払いの割増賃金等を請求し,病院外のオンコール待機の時間が労働時間に当たるかなどが争われた事案 | 病院外のオンコール待機の時間は,緊急性の比較的高い業務に限って短時間の対応が求められていたにとどまり,これを求められた頻度もさほど多くなかったとして,労働からの解放が保障されていなかったとまではいえず,労働時間に当たらないとした。他方,基本給に時間外手当等を含むとの合意は,時間外労働の対価の額を判別できないとして無効とし,院内でPHSによる対応を常に求められていた休憩時間も労働時間に当たるとして,付加金の支払も命じた。 | 待機の時間は,呼出しの頻度や拘束の程度で結論が分かれる。固定残業代の合意や休憩時間の実態も問われる。 |
東京高等裁判所2023年(令和5年)10月25日判決 医療法人社団Bテラスほか事件 | 妊娠した歯科医師に対する院長の言動と,不就労期間の賃金が争われた事案 | 診療予定時間の延長等に加え,控室での揶揄する会話も不法行為と認め,慰謝料20万円等(弁護士費用を含めて22万円)を認めた。院長の交代後は安全配慮義務は一応果たされたとして,賃金の請求を限定した。 | 本人不在の場の発言も問題となり得る。行為者への対応の速さが,賃金の負担を左右する。 |
東京地方裁判所立川支部2020年(令和2年)7月1日判決 福生病院企業団事件 | 公立病院の事務次長から医事課長(管理職)への罵倒や叱責と,同席していた事務長らの対応が争われた事案 | 事務次長の発言(人格否定的な言葉や約1時間に及ぶ叱責を含む。)を,職場内の優位性を背景に業務の適正な範囲を超えたパワーハラスメントとして,国家賠償法上違法とし,適応障害との因果関係を認めた。同席していた事務長が制止や注意をせず,復職時にも事務次長の行動を制限しなかった点で,安全配慮義務違反も認めた(庶務課長は,安全配慮義務を負う立場にないとした。)。 | 管理職に対する叱責も問われる。居合わせた管理者の対応や復職時の環境調整も問われる。 |
さいたま地方裁判所2004年(平成16年)9月24日判決 誠昇会北本共済病院事件 | 准看護師が自殺した事案で,上司や同僚によるいじめへの病院の責任が争われた事案 | 病院は上司や同僚によるいじめを防止する安全配慮義務を負い,認識可能であったのに防止措置を取らなかったとして,債務不履行責任を認めた。ただし,自殺の予見可能性までは認められないとして,死亡による損害ではなく,いじめによる精神的苦痛の慰謝料(500万円)の限度で責任を認めた。 | いじめを認識できた場合の防止措置が問われる。 |
【公開前に要確認】上記の裁判例は,判例データベースに掲載された判決文との照合を済ませています。ただし,康心会事件,日本ケミカル事件,誠馨会事件,Bテラス事件及び福生病院企業団事件の事件名(法人名)は,判決文では当事者が匿名化されているため,判例雑誌等での呼称によっています。公開前に,事件名の表記を確認してください。
7-2 Bテラス事件の事案と判断
【事案】歯科医院に勤務していた女性歯科医師Xが,妊娠を報告した後,医療法人社団(以下「法人」といいます。)の前理事長兼前院長(以下「前院長」といいます。)から,診療予定時間を一方的に延長されて予約が入りにくくなったことや,控室で従業員と共に揶揄されたことなどにより,就業環境を害されたとして,前院長と法人に損害賠償を求めました。あわせて,法人の安全配慮義務違反により就労できなかったとして,法人に対し,育児休業後の不就労期間の賃金の支払を求めた事案です。Xは多数の言動をハラスメントとして主張しましたが,不法行為と認められたのは,その一部でした。
【裁判所の判断】原審の東京地方裁判所2023年(令和5年)3月15日判決(労働判例1303号53頁)は,診療予定時間の延長等の4件の行為について,業務上の必要性がなく不法行為に当たると判断しましたが,損害は認めませんでした。東京高等裁判所(労働判例1303号39頁)は,これに加えて,前院長が従業員と控室で交わした会話について,Xが聞くことを前提としない会話であっても,院長・理事長の立場にある者が従業員と共にXを揶揄する行為は,客観的にXの就業環境を害するものとして,不法行為に当たると判断し,慰謝料20万円と弁護士費用2万円の支払を命じました。
賃金については,裁判所は,法人から特段の研修等の企画は示されていないことを指摘しつつ,前院長が2023年(令和5年)5月1日に理事長を辞任して後任に交代し,Xと院長として接する場面が解消されることなどから,法人の安全配慮義務は一応果たされたと判断しました。そのため,同月分の賃金は同月15日までの分に限って認め,それ以降の不就労期間の賃金は認めませんでした。前院長が辞任するまでの不就労期間(その後の相当期間を含みます。)については,法人の責めに帰すべき事由があるとして,賃金の支払が認められました。
【実務上のポイント】本判決から,次の点を確認できます。なお,本件では,Xの態度や対応にも就業環境悪化の一因があったことなどが慰謝料額の算定で考慮されており,個別の事情に応じた判断です。
- 院長が従業員と共に,本人が不在の場で特定のスタッフを揶揄する会話をすることも,就業環境を害するものとして不法行為と評価される場合があります。
- 診療予定や予約枠の調整は,業務上の必要性を説明できなければ,不法行為と評価されるおそれがあります。他方,個々の患者をどの歯科医師に担当させるかは原則として使用者の裁量に委ねられるとされ,休職や産前休業の予定を踏まえた調整には,業務上の必要性が認められています。
- 行為者である院長の交代など,ハラスメントを解消する措置が取られるまでの間は,スタッフが就労できなかった期間の賃金の支払義務が生じるおそれがあります。
- 控室などでの会話が,スタッフによって秘密に録音され,裁判で証拠として提出される場合があります。本件では,他の従業員のプライバシーを侵害する可能性が大きく相当な収集方法とはいえないとしながら,著しく反社会的な手段とまではいえないとして,証拠から排除する申立てが退けられました。
7-3 裁判例から導く対応の方向
- 固定残業代は,名称ではなく,賃金の区分と対価性を判別できるかが問われるため,書面と運用の両面で整えること。
- 待機やオンコールは,拘束の程度で労働時間性が分かれるため,呼出しの頻度と対応時間を把握しておくこと。
- ハラスメントは,申出や兆候を把握した後にどのような措置を取ったかが問われるため,初動の記録を残すこと。
8 紛争になった場合の手続と流れ
この項の結論
スタッフとの紛争は,都道府県労働局のあっせん,労働基準監督署への申告,労働審判,訴訟などの手続で扱われます。労働審判は,原則として3回以内の期日で審理が終わるため,申立てを受けたら直ちに準備を始める必要があります。
8-1 主な手続の比較
| 手続 | 概要 | 特徴 | 院として準備すること |
|---|---|---|---|
| 都道府県労働局のあっせん | 個別労働関係紛争について,紛争調整委員会のあっせん委員が当事者の話合いを仲介する手続(個別労働関係紛争の解決の促進に関する法律) | 任意の手続であり,相手方が参加しない場合は打ち切られます。 | 事実経過と主張の整理,譲歩できる条件の検討 |
| 労働基準監督署への申告 | 労働基準法違反について,労働者が監督署に申告し,監督官が調査を行う手続(労働基準法第104条) | 調査の結果,是正勧告が行われる場合があります。 | 賃金台帳やタイムカード等の資料の準備 |
| 労働審判 | 裁判官と労働審判員が審理し,調停の成立を目指し,成立しなければ審判を行う手続(労働審判法) | 特別の事情がある場合を除き,3回以内の期日で審理を終結します(労働審判法第15条第2項)。審判に対し,送達を受けた日から2週間以内に適法な異議の申立てがあると,審判は効力を失い,訴訟に移行します(同法第21条,第22条)。第1回期日は,特別の事由がある場合を除き,申立てから40日以内の日に指定されます(労働審判規則第13条)。 | 答弁書と証拠の準備,院長の聴取への備え |
| 訴訟 | 地方裁判所等で,主張と証拠に基づき判決で判断する手続 | 判断までに時間を要する場合があります。付加金が問題となる場合もあります。 | 証拠の整理,主張の組立て |
| 示談交渉 | 弁護士が代理して,請求者と条件を協議し,合意を目指す手続 | 合意書面の作成により,紛争の再発を防ぎやすくなります。 | 解決条件の整理 |
労働審判の申立てを受けた場合は,答弁書の提出期限が第1回期日の前に設定されるため,直ちに弁護士に相談してください。
9 自己点検チェックリスト
この項の結論
次の10項目のうち,確認できていない項目が未整備の事項です。優先順位は,院の状況によって異なりますが,労働時間の記録とハラスメント防止の体制から着手することをお勧めします。
- 始業・終業の時刻を客観的な方法で記録し,毎月,賃金計算と照合しているか
- 開院前の準備,診療後のカルテ整理,勉強会について,労働時間の扱いを決めて周知しているか
- 固定残業代を設ける場合,手当の名称,金額,対応する時間数,差額の精算を書面で明示しているか
- 事務長や師長を管理監督者として扱う場合,職務内容,権限,待遇の実態を確認しているか
- ハラスメントを行ってはならない旨の方針を就業規則等に定め,院長を含む全スタッフに周知しているか
- 院長以外にも相談できる窓口(外部を含みます)を設け,周知しているか
- 妊娠・出産・育児休業等の申出があった場合の対応手順(業務分担の見直しを含みます)を決めているか
- 問題行為について,日時,内容,指導の経過を記録する運用が整っているか
- 就業規則に,退職の申出時期,引継ぎ,無断欠勤の場合の取扱いを定め,実態に合わせて見直しているか
- 患者やその家族からの著しい迷惑行為と,求職者等への言動について,2026年(令和8年)10月1日施行の措置義務への対応を確認したか
10 弁護士に相談すべき場面と依頼できる業務
この項の結論
弁護士への相談は,請求や申出を受けた直後,解雇や懲戒を通知する前,就業規則を改定する前が目安です。自院で対応できる事項と,法的評価や相手方への対応が必要な事項を分けて考えると,相談の要否を判断しやすくなります。
10-1 課題別の整理
| 課題 | 自院で対応できる範囲 | 弁護士に相談できる業務 | 相談の目安 |
|---|---|---|---|
| 残業代の請求を受けた | 資料の保全,勤怠記録の整理 | 労働時間と固定残業代の有効性の法的評価,請求額の検討,交渉,労働審判や訴訟への対応 | 請求書や申立書を受け取った時点 |
| ハラスメントの申出を受けた | 相談の受付と記録,被害者の保護的な配慮 | 事実調査の進め方の助言,ヒアリングと報告書の整理,措置と再発防止策の検討,院長が当事者の場合の外部窓口や調査 | 事実確認に着手する前 |
| 問題職員への対応や解雇を検討している | 問題行為の記録,面談 | 解雇や懲戒の有効性の評価,警告書や退職合意書の確認 | 解雇や懲戒を通知する前 |
| 突然の退職や無断欠勤が生じた | 安否確認,離職の事務手続 | 解雇や予告除外認定の要否の助言,通知書面の確認 | 連絡が取れない状態が続いた時点 |
| 就業規則や体制を整備したい | 現行規則の棚卸し,実態の整理 | 規程の法的確認,医院の実態に即した改定案の検討,相談窓口の設計 | 規則の作成や改定を検討する時点 |
10-2 顧問契約やスポット相談を利用する場面
労務に関する判断は,日常的に生じます。請求への対応や解雇の通知など,特定の問題が生じている場合は,スポット相談が向いています。就業規則や運用の確認を定期的に受けたい場合は,継続的な関与が向いています。当事務所の人事労務に関する支援の内容は,「人事労務対応コンサルティング」をご覧ください。
11 よくある質問(FAQ)
12 まとめ
クリニックの労務トラブルは,労働時間と残業代,ハラスメント,問題職員への対応,突然の退職の4つの場面に整理できます。いずれも,院長の認識ではなく,指揮命令の実態,パワーハラスメントの3要素などの法的な基準,個別の事情によって判断されます。記録と就業規則の整備が,初動の質を左右します。
次の一歩として,9項のチェックリストで未整備の項目を確認し,労働時間の記録の方法(2-5のSTEP1)から見直すことをお勧めします。請求や申出を受けた場合は,2-6や3-5のSTEPに沿って資料を保全し,解雇や懲戒を通知する前に,弁護士へ相談してください。
企業法務に関する他の解説は,「企業法務の羅針盤」でご覧いただけます。
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労務トラブルのご相談の前に整理しておくとよい資料
請求や申出への対応,就業規則の整備について専門家への相談を検討される場合は,次の資料を手元にご用意いただくと,状況の整理が進めやすくなります。
- 就業規則,賃金規程,雇用契約書,労働条件通知書
- 直近のタイムカード,シフト表,賃金台帳
- 問題となっている言動や事実経過のメモ(日時,場所,相手方,内容)
- メールやメッセージのやり取り,面談や指導の記録
- 請求書,申立書,行政機関からの通知がある場合は,その書面
- スタッフの人数,職種,勤務形態の一覧